旧北陸道は、矢立山の北側から長坂を通り(約1.4kmは旧道のまま保存)石坂へ進む。埴生までは旧道を補修してあるが、その道筋は変わっておら
ず、山麓の段丘上をゆるやかに下り、埴生の町並みに入る。埴生八幡宮鳥居の前で東へ曲がる。

 埴生八幡宮はおよそ800年前に源(木曾)義仲が埴生に陣をとり倶利伽羅山において平家の軍勢の平維盛との戦いをするにあたり戦勝を祈願した神社。牛の角に松明をくくりつけた牛の群れを先頭にこの山路を駆け抜け平家を破ったという。「源義仲騎馬像」は昭和58年(1983)に源平倶利
伽羅合戦800年記念として建立。像の重量だけで5トンもあり馬上の人物像としては日本最大級のもの。

源平合戦について
 源平争乱期の1183年(寿永2)5月、越中と加賀の国境砺波山倶利伽羅峠で木曽義仲が平維盛軍を破った戦い。砺波山合戦ともいう。内容は
「平家物語」「源平盛衰記」に詳しい。80年(治承4)9月信濃で挙兵した義仲は、翌年6月越後の城氏を破り、勢力を拡大する。

 義仲のもとには北陸道諸国の在地武士が多く集まり、越中からは石黒光弘・宮崎太郎長康らが参じた。これに対し平氏は83年4月、平維盛を総大将に
追討軍10万を北陸道へ派遣、越前の燧城(ひうちがじょう)、加賀の篠原・安宅で源氏勢を破り越中に進攻した。

 5月9日には般若野で越中前司平盛俊と義仲の武将今井兼平の両軍が合戦。平氏はいったん退却を余儀なくされ、軍を2手にわけて3万を能登志雄
山に向かわせ、本隊7万は砺波山に陣を置くことにした。一方義仲は5月11日、一足先に砺波山の麓に着き、平地での合戦は不利と判断、4万の兵
を7手に分け、3方から山上の敵を包囲し、南側の深谷へ平氏を追い落とす作戦をとる。このとき越中武士の石黒・宮崎・高楯・蟹谷・向田・水巻の
諸氏が道案内役を務めたとされる。本陣を埴生にとった義仲は護国八幡宮(源氏の守り神とされる)に先勝祈願の願文を奉納し、平氏軍の正面に軍を
進めて対峙した。

 同日夜、3方から一斉に攻撃、一説には、火牛の計をもって敵を翻弄したとされる。平氏軍はこの奇襲に驚き、多くの人馬が深谷(地獄谷)に落ちて圧
死したという。その後、義仲は氷見湊を通り、能登志雄山でも勝利を収めて平氏軍を追撃、2カ月後には上洛を果たす。平氏は西国へ落ちのびた。

 2011年正月木曽義仲祈願社護国八幡宮に「祈義仲公・巴御前NHK大河ドラマ実現」の看板が設置されていました。地元の富山県小矢部市、石川
県津幡町を中心に誘致活動が一段と活発になる。


旧北陸道の砂川一里塚跡周辺は、2015年春開業の北陸新幹線工事中の景観となった。

埴クロスランドタワー展望台から小矢部市街地

埴生護国八幡宮本殿

殿に設置の看板・祈義仲公・巴御前NHK大河ドラマ実現

社殿に設置の看板・祈義仲公・巴御前NHK大河ドラマ実現

埴生護国八幡宮

埴生護国八幡宮社殿(2011年1月3日)

倶利伽羅源平の郷埴生口正面(2013年12月26日)

埴生八幡宮(2011年正月)

源(木曾)義仲騎馬像(2013年12月26日)

埴生護国八幡宮本殿(2013年12月26日)

埴生八幡宮境内 2011年正月

埴生護国八幡宮社殿(正面)

埴生護国八幡宮本殿(2013年12月26日)

埴生八幡宮境内 2011年正月

埴生護国八幡宮階段下より(2013年11月16日)

埴生護国八幡宮由緒

埴生護国八幡宮宝物殿

鳥居横・とやまの名水鳩清水

倶利伽羅源平の郷内の火牛の像

埴生から長坂口へ

長坂口から倶利伽羅峠へ2.5km

長坂口の石碑 くりから峠へ2.5km

埴生八幡宮前より石動市街地側

石動市街地へ

砂川一里塚跡付近

砂川一里塚跡周辺

砂川一里塚跡周辺

砂川一里塚跡周辺

砂川橋(新幹線工事前の2009年)

砂川一里塚跡 2009年

砂川一里塚跡横地蔵堂 2009年

石動(後谷)市街地

石動市街地

馬場交差点・250年前創業の五郎丸屋

小矢部市総合会館前里程元標

里程元標

里程元標(後方は小矢部総合会館)


 埴生から石動市街地へ入る北陸道は現在北陸線と旧国道8号線によって分断され、車は高架橋により、歩行者は地下道をくぐって渡る。その入口手
前に地蔵さんなどがたくさんあるところがあり、そこが一里塚のあったところにあたる。

石動市街地に入り馬場の四叉路までが上越前町、中越前町、下越前町で、昔は宿屋が多く、メインストリートだった。江戸時代には高札場のあったと
ころで何かにつけて町の中心になっていた。その四叉路の一角(現小矢部市総合会館前)に「里程元標」、歴史がある
薄氷本舗五郎丸屋の店舗もある。
馬場の四叉路は石動町の中心になっていた。旧北陸道は馬場の交差点で右折、小矢部川河畔の福町へ向かう。

 福町は小矢部川の両岸にのび、江戸時代から明治の鉄道が普及するまでにかけて舟運の津として栄えたところである。東福町を過ぎて芹川、岡へと
進む。荒川保育所手前に「コンクリート製の地蔵堂」があり、この場所が芹川の一里塚にあたる。

一里塚・往還松について
 江戸幕府は幕藩体制を維持するために、五街道を中心とする全国的な道路網の改編・整備につとめたが、その具体的な施策として一里塚の構築と並
木の植栽とがあり、これらは慶長6年に指令されたという。

 一里塚の榎は一里ごとに路傍の両側に築かれた円丘状の土盛りで、高さは約2間、直径は約5間あり、その中央に樹木が植えられて街道の道しるべ
とした。慶長見聞集に江戸日本橋を、一里塚のもとと定め、云々とあるように、五街道では江戸日本橋を基点としたが、加賀藩では越中・越後国境の
「境村一里塚」を基点として設置されたことが天保四年(1647)の越中道記などによって推察される。一里塚として残る顕著なものは境の一里塚・横水の
一里塚・坪川の一里塚・水橋の一里塚等々。

 往還松の植栽方法は、二間に一株の割合で、一里の間に片側830株の割合となっている。現在、往還松として残る顕著なものは、浜黒崎の松並木
・舟見の御前松・滑川の門松・宇奈月栃屋等々。

 旧北陸道沿いの城山公園の桜が満開、城山公園は前田利秀の居城の今石動城四万石の城跡。四千本の桜(ソメイヨシ)が咲き誇る名所。

西福町市街地(橋の手前)

旧北陸道の小矢部橋

東福町(橋の向こう側)

清月寺

芹川一里塚跡隣荒川公民館・保育所

旧北陸道(小矢部市岡)

勅使桜跡(小矢部市岡)

旧北陸道左側に見える寳性寺

地蔵堂・芹川一里塚跡

芹川一里塚跡説明石碑

さくら満開・往還の松跡

往還の松跡説明板(小矢部市岡地区内)

稲葉山展望台から小矢部市芹川地区

城山公園 大谷池

城山公園の じんむ広場

城山公園の桜

城山公園の全国でも珍しい消防神社の社とコブシの花

城山公園 じんむ広場から中央広場

城山公園のソメイヨシノ

城山公園案内図(拡大)

                                                                                  
旧北陸道は福岡市街地へと進みます。

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資料
富山県歴史の道調査報告書(北陸街道)発行昭和55年(1980)12月10日 富山県教育委員会・富山県郷土史会
地元発行の観光パンフレット、施設の説明表示板、HP等。
富山大百科事典  平成6年(1994)初版発行 発行所 北日本新聞社