金沢城跡は金沢市東部、小立野台地の先端部に立地する近世の平山城跡。天正8年(1580)柴田勝家(越前城主)が、
それまで当地にあった金沢御堂を攻略して、佐久間盛政が初めて金沢城主となり城郭整備に着手した。賤ヶ岳の合戦後、
前田利家が金沢城主となり、3代藩主利常による寛永8年(1631)の大火後の造営で現在の城の縄張りが定まり、約
300年間にわたって約100万石を領した前田家歴代の居城として継続した。明治期以降は兵部省・陸軍省管轄・金沢
大学のキャンパスになるなど変遷があったが、平成7年の金沢大学角間移転後、石川県によって都市公園「金沢城公園」
として公園整備がなされている。金沢城跡の主要な範囲は、本丸、二の丸、三の丸、新丸、金谷出丸など、約30ヘクタ
ール。重要文化財の金沢城石川門、金沢城三十間長屋城、県指定の金沢城土蔵(鶴丸倉庫)などが伝わるほか、大規模な近
世城郭としての縄張りと高い技術によって構築された石垣などが良好にのこり、近世の大大名の政治権力や築城技術を知
る上で重要である。石川県と金沢市では、世界遺産登録を目指して、その前提となる暫定一覧掲載の候補として、金沢城
跡、兼六園等を構成資産とする「城下町金沢の文化遺産群と文化的景観」を文化庁に提案されている。
平成13年(2001年)に復元された菱櫓(ひしやぐら)・五十間長屋・橋爪門続櫓も、一切釘を使ない昔ながらの工法
が再現されている。橋爪門は石川門、河北門とともに金沢城の三御門と呼ばれ、二の丸の正門。内堀に架かる橋爪橋を渡
り、橋爪門に入る。櫓門を備えた重厚な枡形門に造られていた。一の門と橋爪橋は、資料や古写真に基づき忠実に復元さ
れた。国指定の重要文化財の石川門は金沢城の搦手門(裏門)として重要な位置にあり、河北門、橋爪門とともに金沢城
の三御門と呼ばれていた。櫓と櫓を長屋でつないだ重厚な枡形門に造られている。宝暦の大火(1759年)の後、天明
八年(1788)に再建され、現在に伝わっている。二の丸は寛永の大火(1631年)後、二の丸に千畳敷と形容され
る豪華な御殿が建てられ藩庁として利用された。元禄年間の増築で拡充されたが、儀式の場である(表向)、殿様が日常
政務を行う御居間廻り、妻子や奧女中の生活の場である「奧向」という三つの空間に仕切られていた。

石川橋よりお堀通り(百間堀)を望む 石川門を入ると総合案内所・休憩所あり 石川橋より兼六園下を望む

金沢城石川門口

金沢城石川門(国指定重要文化財)
金沢城公園 石川門口案内板 兼六園前から金沢城石川門を望む 兼六園下バス停より望む金沢城石川門
休憩所から望む五十間長屋・橋爪門続櫓 鶴の丸休憩所 橋爪門

金沢城土蔵(鶴丸倉庫)・国指定重要文化財

三十間長屋(国指定重要文化財)
雪に埋もれた戌亥櫓跡 二の丸・本丸の堀に架かる極楽橋 菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・石垣

戌亥櫓跡より望む五十間長屋・橋爪門続櫓

戌亥櫓跡付近より望む金沢城石川門

二の丸広場より望む五十間長屋

鶴の丸広場より望む五十間長屋・橋爪門続櫓
いもり坂口への案内板(2010年) いもり坂口(2010年) いもり坂口より城跡石垣(2010年)


河北門について
金沢城の大手から入り、河北坂を上がったところに位置する「三の丸の正面」であり、金沢城の実質的な正門です。現存
する「石川門」と「橋爪門」と共に「金沢城三御門」と呼ばれているが、金沢城の建物の大半が焼失した宝暦(1759
年)の大火の後、三御門の中で最初に再建された重要な門。再建された河北門は、明治15年頃に無くなるまで金沢城の
実質的な正門としての役割を果たしていました。約130年ぶりに甦った河北門は平成19年11月着工し、平成22年
4月まで約2年半の歳月をかけて完成。
河北門の構成について
一の門、二の門、ニラミ櫓台、及び、枡形土塀により構成された枡形の空間で構成されている。城として搦め手(勝手側)であ
る石川門も同様の枡形を構成しています。


二の門(高さ12.3m・幅26.9m・奥行き8.2m)

一の門・ニラミ櫓台を望む
三の丸広場より河北門(二の門) 二の門2階内部(2010年) 三の丸広場側より望む河北門
一の門を入り望む河北門(二の門) 河北門(一の門) 河北門(二の門)

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