長い町並みの境には切妻の家屋が現在でもよく見られるが、道は町の中央の境小学校前にある関所跡の辺をコの字状に海に向かって囲む形で進んで
いた。朝日町立境公民館の北側「境関所跡」と記した大きい板状の石碑が立っている。その碑は、境関所の平面図で示されているように、町と西町の
中央にあり、国道百間をはさんで、関所が設けられていた。

 現在は公民館前から小学校跡に移転されて、資料館(関の館)、石碑、境関跡、関所の池等があり、境関所は慶長19年(1614年)に開設された。
加賀藩最大の、また日本随一の厳重な警備体制で、役人・武器などは、小さな城に匹敵する武力を持っていた。

 街道筋には「岡番所」浜には「浜番所」を置き、陸と海と山から旅人の出入りを監視していた。徳川幕府は各藩が私関を置くことを禁じ、藩の関所
は「口留番所」と称したが、加賀藩では境については幕府と同様に「関所」と呼び領内に6ケ所ある中、区別をしていた。加賀藩最大の関所で、箱根
の関所より大きかったといわれた。

 旧北陸道は宮崎鉱泉(昭和55年頃に横に街道松が1本あったが現在は無し)を左に見て、愛の風富山鉄道の越中宮崎駅を少し進み右に左にまがりな
がら、境の町に入って行く、市街地右に仁王山 護国寺がある。

 街道左側には、朝日町立境公民館があり、前にあった関所跡石碑が向かいの境小学校(閉校後)の場所へ移設。関の館が復元され、関所の池等々が
ある。境小学校のクラウンドあたりが「陸関所」の置かれた場所で、その背後は御旅屋跡、池の一部がシイの老樹におおわれて残っている。反対側の
公民館の裏側が「浜関所跡」「浜通用門跡」であった。

 関所略図は関所跡に復元された御関所大門説明板から
境関所略図を拡大していますので参照して下さい。

 関の館は黒で統一された建物で、屋根や門構えは境関所をイメージしている。館内の、歴史資料室には「境関所御囲絵図」などの関所当時のものや
資料が並ぶ。関の館の名付親は水島捨男氏。揮毫は、境出身の書家水島濫潮氏。関の館展示資料に展示されている江戸時代の越中国の関所資料による
と、加賀藩領に6ケ所、富山藩領に2ケ所の計8ケ所に関が設けられていた。

 街道は町はずれに進み、越後国境の境川の手前に、境の一里塚が道沿い左下にある。県下では原形をとどめた唯一の一里塚である。面積が約100
平方メートル余りのこの塚には、ヤブツバキ、フジズル等の内、根元の直径60p、高さ12mのエノキが一きわよく目につく。

 境の一里塚は、慶長14年(1609)に三代目加賀藩主前田利常が地元農民につくらせたもの。加賀藩内では第一号のものといわれている。以上
は旧街道左の塚のことで右の塚はバイパス工事で破滅した。「関の館」で、境関所、市街地の切妻造りの家屋、境の一里塚跡、護国寺等を確認できる
「境まち歩きマップ」は大助かり。越中、越後国境をなす境川は古代からの交通の要点であった。

 文政・天保(1818から1844年)当時の川幅は往還筋で一町二十間あり、これを歩渡りしたが荒川で早瀬をつくり、出水の時は川越人足経が
でた。川筋に沿って上り、越後側の支流荒沢川(上路川)に入ると、上路の集落に至る。この経路は親不知の天険を避けて山中を通る間道「上路道」
として知られる。境川を越し、越後の市振の関へと進む。



仁王山 護国寺

護国寺庭園

護国寺庭園のシャクナゲ

護国寺庭園見取図

護国寺庭園から境関所跡

境関所跡 関の館

2014年に復元された御関所大門

御関所大門の説明板 境関所略図拡大
   

境関阯石碑

境関所跡 関の館

関の館 境御関所提灯

関の館 境御関館配置模型

旧境小学校の門柱

門柱は撤去され境小学校記念碑設置

長谷川地蔵と解説碑

長谷川地蔵の解説碑

復元された境関所の池

境関所の池説明板

境関阯石碑を現在地へ移設碑

県指定文化財十三寺の仏像説明板

関の館前の境関跡石碑(左端)

館内の境関所資料の説明板

県道374号線の護国寺入口

護国寺への階段

護国寺本堂前の庭園

護国寺入口の杉の巨木

護国寺入口から本堂

護国寺庭園のお笑い地蔵

護国寺本堂前の庭園

護国寺庭園の観音像

護国寺本堂前の狸像

竜頭の水

境神社入口の社銘柱と階段

境神社一の鳥居

境神社二の鳥居

境神社拝殿

遠方正面に境一里塚がある

境一里塚

境一里塚内にある里程標

境一里塚説明板

境一里塚内の石碑

境一里塚のエノキとヤブツバキ

境一里塚説明板

境一里塚

県境の境川に架かる境川橋

北陸電力境川第二発電所

糸魚川市側から境一里塚を望む

県境の境川に架かる境川橋
 
 
 
糸魚川市 越後市振の関
国境の越後市振(糸魚川市)の旧北陸道
 越中、越後国境をなす境川は、令の規定に朝集使が北陸道において駅馬の利用を許される。「神済以北」の神済(かんのわたり)に当たるとする説
が古くから行われるなど、古代からの交通の要点であった。文政・天保(1818〜44)当時の川幅は往還道で一町二十間あり、これを歩渡りしたが
荒川で早瀬をつくり、出水の時は川越人足がでた。

 川筋に沿って上り、越後側の支流荒沢川(上路川)に入ると、上路の集落に至る。この経路は親不知の天険を避けて山中を通る間道「上路道」とし
て知られる。かくして道は、境川を越し、越後新潟県の市振の関へと進むことになる。

市振関所跡と関所榎(糸魚川市指定文化財)について

 江戸時代初期徳川幕府は、重要な政策の一環として全国に五十三の関所を設け、街道行旅の人々を取り締まった。「市振の関」はその五十三関中重
要二十三関の一つであった。親不知子不知の険難の地を東方に控え、北陸道に於ける越中との国境の要衝として寛永(1624〜)年代のはじめ幕府
は高田城主松平光長に命じて、ここに関所を設けた。関所跡には市振小学校が建っていたが2018年に廃校になっている。

海道の松(糸魚川市文化財)について

 昔の北陸道は、この海道の松から、海岸へ降りて西からの旅人は、いよいよ寄せくる波におびえながら天下の険親不知子不知(おやしらずこしらず)
を東へ越えることになったのである。又西へ上る旅人は10km余りの波間を命がけでかいくぐり海道の松にたどりついて、ようやくホッとして市振の
宿へ入ったのである。海道の松は昭和49年4月に青海町(現:糸魚川市)の天然記念物に指定されたが、2016年10月10に台風18号の影響で
倒壊した。現在は海岸の松を移植し記念の石碑が設置されている。

松尾芭蕉 奥の細道 市振宿
 1689(元禄2)年7月12日、芭蕉と曾良は能生町を出発し夕刻5時、市振宿に到着。「桔梗屋」という旅籠に宿泊したと当地では言っているが
不明。市振は、親不知の南2.5kmにあり、寛延年代の初期に関所が置かれた。

 宿舎の記述が曾良にも無いので不明だが、遊女ついての記載は曾良の随行記には無いので、市振宿で詠んだ「一家に遊女もねたり萩と月」は虚構だ
と思われている。
 

市振関所跡の石碑

関所榎・糸魚川市天然記念物(推定樹齢250年)

市振宿入口の海道の松

海道の松跡のプレート

えちごトキめき鉄道市振駅

市振駅前より国道8号線富山方面

市振駅前より国道8号線糸魚川方面

市振宿へは左折

市振小学校石碑

市振関所跡付近の通り

市振小学校前バス停 廃校後も同じ

市振関所跡説明板(拡大)

高田藩・幕府代官管理の市振関所

桔梗屋前バス停 奥の細道標柱

長園寺の奥の細道句碑

海道の松跡付近の地蔵堂

加賀藩時代の越中国の旧北陸道(加賀往還道)を辿り、県境を越えの市振関所跡も探索しました。(越中国の旧北陸道・おわり)

                             
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史跡・施設の参考資料
富山県歴史の道調査報告書(北陸街道)発行昭和55年(1980)12月10日 富山県教育委員会・富山県郷土史会
地元発行の観光パンフレット、施設の説明表示板、HP等。
富山大百科事典  平成6年(1994)初版発行 発行所 北日本新聞社