文中の旧浜街道(北陸街道)は富山・魚津線を指す。
往還松はこの通り東西延長約8kmの道路の両側に立ち並んでいた。大正13年には幹廻り寸法6尺以上のものが51本あったが、第二次大戦中船等 の材料に充てるため岩瀬天神町から海岸通りのあたりまでの往還松が伐採され、現在6尺以上のものが24本に減っている。案内表示板によると「浜 黒崎の松並木」県指定天然記念物は昭和40年に指定当時には29本、その後枯死等により現在9本となっている。
岩瀬運河に架かるいわせ橋を渡り旧浜街道に入る。右手には「観光物産館のカナル会館」、富山ライトレールの「岩瀬浜駅」前の交差点を右に浜街 道に入る。しばらく行くと「源義経鎧掛けの松」といわれる所がある。源平合戦において兄の頼朝を助けて、寿永4年(1185)に平家を滅ぼしました が、その翌年には頼朝から追われる身となり、奧州の藤原氏のもとへと落ちのびる途中に旧浜街道を通ったといわれ、北陸の地の松に鎧を掛けたとい われている。
現在では伝説の松は失なわれてしまったが、往時の面影を再現しょうと地元老人クラブ(幸友クラブ)の手によってこの場所に松が植えられている。
戦国時代は上杉氏と越中国人の争乱の地となり、大村の地に大村城が築城された。このとき松並木の本街道は、「百間馬場」と称して、将兵の馬術の 鍛錬場として使用されていたという。大村城主轡田豊後守の武勇を讃えた伝説に、「くまの地蔵さん」「精霊塚」等が街道の道脇に残っている。又日方 江地内に「三文塚」と呼ぶ小高い丘がある。
河田豊前が大村城攻略のため一夜のうちに築いたといわれる。現在この丘の上に祠をまつり丘の東側に「村社天神社」がある。旧街道は日方江地内 の西口、往来のほぼ中央に立っている「往還老松」のところまでは、旧街道の南側と富山・魚津線の北側が重なりながらほぼ直線的に走っているが、 旧街道の老松のところから左手(浜側)に迂回し三文塚・村社天神社の北側を通って再び現在の富山魚津線につながるものと思われる。
現在、約二百米にわたって、参勤交代の旧街道の面影が残る狭い旧道が残っており、その道脇に「往還松」がある。浜街道は更に高来村を経て今川橋 を渡り水橋に至る。水橋へ渡る橋が今川橋(大正5年・木橋、昭和15年、コンクリート橋)、江戸時代末安政5年まで、今川橋はわずか3間の小川 にかかる橋であったが、安政五年の鵞山崩れで常願寺川の河道が町袋から下流が大きく欠け込み今川に落ち込み真直ぐに富山湾に注ぎ込んで現在の常 願寺川の姿となったのである。
かつて常願寺川(水橋河口)は白岩川となった。従って旧街道は、今川橋をわたり左手海岸部寄りに進み、水橋川(水橋川とは白岩川、常願寺川が 上流で合流していた頃河口を水橋川と呼ばれていた)手前で西水橋の町並みに突き当たるのである。
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