砺波山は富山県小矢部市と石川県津幡町との間に位置する倶利伽羅山の古称。広義には、付近の矢立山、源氏ケ峰、国見山なども含める。古くから交通の要所であった。砺波の関はこの山麓におかれた。今から約800年前、源平の争乱のころ、木曾で挙兵し勢力を伸ばす木曾義仲と都から侵攻した平維盛の軍が越中と加賀の国境砺波山で戦う、これが平家物語にも記される倶利伽羅合戦である。
 倶利伽羅峠は加賀、越中の国境にある標高260mの峠。旧北陸道は加賀国側の津幡町竹橋から不動寺手向~社の南側下を進んだところで加賀、越中の国境を越え石坂を経て埴生に至る。この約10kmの道筋は旧北陸道の面影が一番残っているといわれている。


国見山頂上(277.1m)から倶利伽羅不動尊を望む(5月)

国見山頂上(277.1m)から五重之塔を望む(2012年5月)

倶利伽羅不動尊の弘法大師像

倶利伽羅不動尊山頂堂(石川県津幡町倶利伽羅リ−2)

日本三不動別格本山の倶利伽羅不動尊(5月)

倶利伽羅不動尊の白寿観音像


倶利伽羅不動尊への階段

不動ヶ池案内板

不動ヶ池

倶利伽羅権現石殿への階段(5月)

倶利伽羅権現石殿(国見山頂上)

津幡町教育委員会作成解説板

手向神社鳥居(5月)

手向神社(たむけじんじゃ)

手水舎

水かけ不動尊

水かけ不動尊解説板

倶利伽羅三十三観音(5月)

倶利伽羅不動寺から剱岳

倶利伽羅不動寺から立山


  砺波山は富山県小矢部市と石川県津幡町との間に位置する倶利伽羅山の古称。広義には、付近の矢立山、源氏ケ峰、国見山なども含める。古くから交通の要所であった。砺波の関はこの山麓におかれた。今から約800年前、源平の争乱のころ、木曾で挙兵し勢力を伸ばす木曾義仲と都から侵攻した平維盛の軍が越中と加賀の国境砺波山で戦う、これが平家物語にも記される倶利伽羅合戦である。
 倶利伽羅峠は加賀、越中の国境にある標高260mの峠。旧北陸道は加賀国側の津幡町竹橋から不動寺手向~社の南側下を進んだところで加賀、越中の国境を越え石坂を経て埴生に至る。この約10kmの道筋は旧北陸道の面影が一番残っているといわれている。
 寿永二年(1183)信州の木曾山中で兵を挙げた木曾義仲は、京都をめざして北陸路を進軍。十万の兵を率いる平維盛と加賀・越中の国境砺波山(倶利伽羅山)で対戦した。 埴生八幡宮に戦勝祈願の願文を捧げ、牛火の奇計を練り、五月十一日夜半、四万余騎にて一斉攻撃を開始。根井・巴両党は松永より、今井党は平家の本陣猿ヶ馬場正面の日の宮林より、余田党は天田峠より樋口党は北K坂から迂回して竹橋より、法螺貝を吹き、太鼓を鳴らし、閧の声を挙げながら、牛に松明を燃やした四〜五百頭の牛火を放って突撃。長途の行軍にまどろんでいた平家はあわてふためき右往左往。将兵は軍馬もろともに地獄谷に馳せこみ落ちて、相重なって谷を埋め、その数一万八千余馬、と源平盛衰記は伝えている。
 為盛塚、為盛は、池の大納言平頼盛の子として生まれ寿永2年(1183)砺波山の源平合戦に平家の総帥平維盛の武将として出陣、5月11日源氏の夜襲に敗れ、加賀国に逃れ翌12日未明手兵50騎をひきいて源氏に襲したが義仲の武将樋口兼光に首をはねられた。この塚は勇敢な武将為盛を弔うたもので、墓は地、水、火、風、空を表す五輪の塔で高さ16m鎌倉時代の建設。
 小矢部市はこの史跡を文化財に指定。塔乃橋は源平合戦の時、平家の将平行盛がこの地に陣を布き源氏方と対等した。この地は、古来より矢立まで三町程馬の背のような険しい所で前田利長公が高岡へ行くようになってから北国街道(古称)が整備された。万葉の頃、刀奈美夜麻(となみやま)と言われていたこの周辺は、源平合戦を始め、しばしば戦場となった。倶利伽羅峠を通った歴史の人々として有名なのが松尾芭蕉。江戸を1689年に出発して関東・奥羽・北陸を経て大垣に到着という旅の紀行文「奧の細道」には越中路の記述がある。峠に芭蕉塚がある。
 この句「義仲の寝覚の山か月悲し」は芭蕉が、朝日将軍とうたわれた源(木曾)義仲の末路を涙して詠んだ句で津幡の俳人河合見風が宝暦時代に義仲叉ゆかりの地、ここ猿ケ馬場に往時を偲んで建立したものを、後に至り金城馬佛が再建したものである。万葉の歌人大伴家持が国守として越中に赴任のときに、この道を通ってきたと考えられている。万葉集から「焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遺り添え 君を溜めむ」と越中国守大伴家持は最高の賓来である東大寺の占墾地使僧平栄らを饗しその時歓待の歌を詠んだ。
 「天池」古来より、この高地に年中水の切れない池があったので天池と言われた。源平合戦の時源氏軍の今井兼平が、この地を陣地として平家と対峙。埴生護国八幡宮は木曾義仲が戦勝を祈願した神社。

源義仲騎馬像(重量5トンと人物像では日本で最大級)

砺波山源平古戦場(案内図拡大)

ふるさと歩道長坂登口案内板

源平倶利伽羅合戦・平家本陣跡

平家本陣軍略図

弘法の水解説板

倶利伽羅ふるさと歩道入口(2012年5月7日)

火牛の像(2012年5月7日)

砂坂地蔵解説板

塔乃橋(源平合戦のとき平行盛が陣を布き源氏方と対峙した)

北陸道峠茶屋説明板

源氏が峰解説板

源平供養塔(5月)

爲盛塚(源平供養塔の後方)

小矢部市観光周遊バス停

トイレ男女h2表示は義仲・巴御前

猿ケ堂

猿ケ堂 猿ケ馬場解説板

芭蕉塚

火牛の像(角に松明をつけた牛)

倶利伽羅ふるさと歩道入口

地獄谷説明板(2012/05/07)

地獄谷を望む(2012/05/07)

塔乃橋の説明板

矢立山麓の矢立堂石碑

倶利伽羅ふるさと歩道休憩所

倶利伽羅ふるさと歩道峠茶屋の石碑

矢立堂・峠茶屋方面への入口

ふるさと歩道砂坂登り口

倶利伽羅ふるさと歩道

埴生大池堰堤

ふるさと歩道黒坂口道標

上から ふるさと歩道長坂登り口

ふるさと歩道長坂登り口

くりから越えいにしえ街道の道標

いにしえ街道埴生側入口

手向神社側から埴生側

埴生側は切り通しのようになっている。

   
   

  源平争乱期の1183年(寿永2)5月、越中と加賀の国境砺波山倶利伽羅峠で木曽義仲が平維盛軍を破った戦い。砺波山合戦ともいう。内容は「平家物語」「源平盛衰記」に詳しい。80年(治承4)9月信濃で挙兵した義仲は、翌年6月越後の城氏を破り、勢力を拡大する。義仲のもとには北陸道諸国の在地武士が多く集まり、越中からは石黒光弘・宮崎太郎長康らが参じた。これに対し平氏は83年4月、平維盛を総大将に追討軍10万を北陸道へ派遣、越前の燧城(ひうちがじょう)、加賀の篠原・安宅で源氏勢を破り越中に進攻した。
 5月9日には般若野で越中前司平盛俊と義仲の武将今井兼平の両軍が合戦。平氏はいったん退却を余儀なくされ、軍を2手にわけて3万を能登志雄山に向かわせ、本隊7万は砺波山に陣を置くことにした。一方義仲は5月11日、一足先に砺波山の麓に着き、平地での合戦は不利と判断、4万の兵を7手に分け、3方から山上の敵を包囲し、南側の深谷へ平氏を追い落とす作戦をとる。このとき越中武士の石黒・宮崎・高楯・蟹谷・向田・水巻の諸氏が道案内役を務めたとされる。
 本陣を埴生にとった義仲は護国八幡宮(源氏の守り神とされる)に先勝祈願の願文を奉納し、平氏軍の正面に軍を進めて対峙した。同日夜、3方から一斉に攻撃、一説には、火牛の計をもって敵を翻弄したとされる。平氏軍はこの奇襲に驚き、多くの人馬が深谷(地獄谷)に落ちて圧死したという。その後、義仲は氷見湊を通り、能登志雄山でも勝利を収めて平氏軍を追撃、2カ月後には上洛を果たす。平氏は西国へ落ちのびた。
郷土の伝承膿川(うみがわ)
 地元新聞に「記憶に残る膿川」の事が記載されていた。小矢部インターから石動市街地への途中に膿川という川がある。この川は倶利伽羅山の合戦で、木曾義仲軍に敗れて命を落とした平家の武者たちの血や膿が多量に流れたことから、こう呼ばれるようになったとされる川である。私も子供の頃に同じ内容で膿川の話をきいたことがある。膿川は地獄谷から流れている小矢部川水系の河川である。


埴生八幡宮に設置された看板(201101/03)

設置された看板・祈義仲公・巴御前NHK大河ドラマ実現

埴生八幡宮の木曽義仲像

源平の郷埴生口(2011年1月3日)

源義仲・巴御前の大河ドラマ誘致活発

長坂出口から埴生八幡宮前へ

埴生大池

勘左衛門ため池

膿川(うみがわ)

上流(遠方は倶利伽羅山方面)

下流(渋江川との合流地点)

                                                   
資料

富山県歴史の道調査報告書(北陸街道)発行昭和55年(1980)12月10日 富山県教育委員会・富山県郷土史会
地元発行の観光パンフレット、施設の説明表示板、HP等。
富山大百科事典  平成6年(1994)初版発行 発行所 北日本新聞社