早月橋(早月川)を渡り魚津市に入り三ケ・住吉町・魚津市街地・吉島・持光寺から片貝川を渡り黒部市に入り、上街道(愛本経由)と下街道(西 入善経由)とに分岐。上街道を通り愛本橋手前までを辿る。
早月橋を渡ると右手に魚津水族館、左にミラージュランドがあり、旧北陸道は橋を渡りすぐ左折し三ケ集落に入りる。早月川右岸のたもとには大伴 家持の「波比津寄河」早月川を詠んだ歌碑がある。現在は魚津水族館のとなり魚津総合公園の中に移設されている。
三ケ集落へ入り往還松がある、巨大樹で、町松とみなされている。松の根元には明治の力士関係名号石二基、その向かいに明治の戦没碑三基がそれ ぞれ並ぶ。ここには間違いないが、見あたらず、地元の年配の方に聞いて町松のあった場所を教えて頂く。
街道は新住吉町に入りやや左への道を行き角川橋を渡り、新角川1丁目の今井電機商会の角を左折すると「史蹟明治天皇魚津行在所」の石柱のある 寺崎宅が視野に入る。海沿いの新角川橋を渡るとすぐ左に万燈台がある、この燈台は慶応4年(1868)に魚津町奉行小川渡が角川尻に建設したも のである(万燈台説明文より)。
これより先へ進むと「魚津米騒動発祥の地」の石柱があります。魚津の米騒動(大正7年7月23日)北海道への米の輸送船伊吹丸が魚津港に寄港。 おりからの米価高騰で苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が米の積出を行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に集まり、米の積出をやめるよう要求 し、このため米の搬出は中止された。その夜には、百数十人に膨れた主婦たちは町内の米穀商宅に押しかけ、移出防止を求めました。これが時の内閣 を総辞職に追い込んだ米騒動の始まり。
大町通りは昔の町人町で、ここから荒町、真成寺町にかけてが、町の目抜き通りであったという。右には旧魚津城跡(現大町小学校)への道がある。「魚津城(小津城とも称す)」魚津市の大町小学校を中心とした地域にあった平城。
北に神明川、東に沼沢地、南に角川があり、西は海に面した自然の要害地。東方の山々に築かれた山城の松倉城塁群と連携し、北陸道の浜街道筋と 海上交通を押さえる要衝であった。1335年(建武2)に椎名孫八入道によって築城(越登賀三州誌)というが確証はない。恐らく室町中期以降、 新川郡守護代椎名氏が松倉城を本拠としてから、その支城として築城されたのであろう。1569年(永禄12年)上杉謙信は松倉城の椎名氏を攻撃、 小津城には武将河田長親をおいてから、松倉城とともに上杉方の越中進出の拠点となる。
大町通りの一つ西、海沿いに「魚津発祥之地」という石碑の立つ諏訪神社がある、諏訪神社の年中祭典行事は起舟祭・新年祭・鎮火祭・春祭・夏祭等 々があるが夏祭(たてもん祭り)は平成9年12月に国の重要無形民俗文化財に指定された。
街道は荒町から中央通りに入ると、魚津神社がありる、昭和31年(1956年)の大火後、五社が合併してできたもので、昔から神明社の名で知 られる。魚津神社近くには照善寺がある。魚津市伝統の火祭りは毎年1月26日、街をあげて催される。この行事は、愛宕神社(昭和41年魚津神社 境内に遷座)の神事(神社内表示板より)。
旧北陸道は魚津市街地から沓掛魚津線を通り魚津高校を左にみて持光寺へと向かう。持光寺からしばらく進むと片貝川に架かる片貝橋を渡ると黒部 市に入る。持光寺集落の入口右手に、いずれも明治の戦没碑一・六字名号石二基が並ぶ。持光寺には、立山を開いたとつたえる慈興上人・佐伯有若を 開祖とする慈興院大徳寺があり、寺伝を証するがごとき立山曼荼羅をはじめとする多くの寺宝を保有。又、明治天皇の玉座を部屋・建物ともにつたえ、 山門前には「明治天皇持光寺御小休所」の石柱がある。
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