浜黒崎から常願寺川の今川橋を渡り、富山市水橋町から県道1号線(旧北陸道)で上市川を越えて滑川市街地へと入り早月川に架かる早月橋までを 辿る。東水橋は西水橋と共に、常願寺川と白岩川とが合した水橋川の河口に位置した交通の要地。近世は宿駅又港町として栄え藩倉が置かれ米の積出 港でもあった。
安政五年(1858)の大地震による立山の山崩れにともなって起きた大洪水で常願寺川はその流路にかなりの変動をきたしたので、明治二四年(1 891)外国人土木技師ヨハネス・デ・レーケの設計になる河川改修によって、白岩川と常願寺川は完全に分離されて水橋は白岩川だけの河口となっ た。水量も減少下結果、その後西水橋側の河岸が埋立てられ、川幅は約半分に狭められた。
天保10年(1839)当時の定渡場は、現在の東西橋の地点で当時の川幅は約240mであった。白岩川に架かる水橋川を東西橋で渡ると、右橋 詰に水神社がある。水橋川に最初の架橋をみたのは明治2年(1869)。今日の東西橋の前身立山橋。当時に創建された神社が水神社。
この境内には富山市指定保存樹木の老松が並列していて、自然堤防の断片を示すものと考えられています。水神社前に木造の六角堂があって、内に 伝蔵地蔵尊をまつる。六角堂の外壁に掲げる「伝蔵地蔵のいわれ」によると、藩政時代の寛文二年(1662)には西水橋に給人蔵が、寛文八年(1 668)には東水橋に水橋御蔵が設けられ、上流の米作地域から水橋川の舟便を利用して御納米が集められ保管された。
給人蔵とは藩士の扶持米を収納し藩蔵は年貢米を収蔵した。給人蔵は西水橋の四人の蔵宿主である池田屋・辻が堂屋・勝島屋・浜屋によって厳重に 管理されていた。凶作で飢饉で民衆の餓死寸前の惨状を見るに忍びず、米商人の眼目屋與左エ門(さっかやよざえもん)が給人蔵をあけ保管してあっ た藩士入江定蔵の知行米(塚越村納入)を搬出許可なく処分したことから藩の咎めをうけ生き埋めの刑に処せられた。
この事実を知った住民達は、彼の悲壮な美徳に感銘し地蔵尊を安置慰霊し伝蔵地蔵と称えている。街道は橋を渡って約50mで北方へまがる。反対 側50m程行った水橋中部小学校が藩倉のあと。街道は水橋中心部に入る。街道沿いに水橋神社がある。廻船問屋石黒屋権吉の奉納品が多くあり北前 船の絵馬、石製水船、同井筒など、それぞれ天保九年(1853)などの年次が見える。西天神町に入ると金刀比羅神社がある。料竹甫先生記念碑・ 庚申璽と刻む川原石がある。
白岩川べりにかけては、かつて砂町といわれたところで、西の舟場からの舟着場であった(能登行きの船の発着場でもあった)。街道は町並みを過 ぎて東出町の道沿い左手に「一里塚」があります。塚の現状は、路面上より高さ1メートル数十センチの高まりを東西八メートル、奥行約14メート ルにわたってコンクリートで縁とるもので、上の不動堂内には本不動明王等が安置されている。
不動堂の向かって左奧には文政6年(1823)の題目石が並んでいる。一里塚手前左側には三基の石標がならぶ。明治の寺子屋の門弟による建立 と聞く。街道は水橋魚躬から上市川を渡り滑川市に入る。右手の海洋高校、現在:日医工スポーツアカデミーを過ぎて信号を左に行くと、すぐ加茂神社 がある。
|