旧北陸道沿い、加積雪嶋神社前に海蝕を防ぐために、波消しブロック群と大きな防波堤があり、地元の人は「万里の長城」に例える。街道山側には
加積雪嶋神社があり、神社鳥居前は、石仏、石標の一大集結地である顕彰碑5、道祖神等と刻む川原石6等々、他法華塔等々があり街道遠方左に立山
大岩道道しるべの標識があり、細い道を突き当たり右折し、県道に一致。左折し滑川市街地に入って行くと近くに養照寺がある。
天保13年(1842)から幕末まで養照寺が本陣を務めた。大町を行くと道筋に本陣遊園地(滑川本陣跡)があり、近くの荒町公民館前に芭蕉宿
泊のまちの句碑がある。元禄2年(1689)松尾芭蕉と同行の曾良は、奧の細道の旅の途中、7月13日(新暦8月27日)夕方滑川に着き宿った。
旅籠の川瀬屋という説が有力でこの辺りにあった。
さらに街道を行くと格式の高い延喜式の櫟原神社があり、境内の南隅にしめなわつきの鳥居を構えた高さ80センチの立石がある。正面に道祖神と
刻まれている、神社隣に琴比羅社がある。櫟原神社前の街道を進み海が見える辺りに「和田浜古戦場跡」という表示がある。近くには、ほたるいかミ
ュージアムがあり滑川漁港をすぎて中川原に入る。
往時の面影を伝えている「坪川の一里塚」があり、坪川をすぎて、街道(北陸街道)沿いに往還松がある。慶長2年(1597)のもので、昔は道の
両側に1本づつあり、丁度門のように枝がのびていたというが、残念ながら現在は1本だけになった。門松と言われている樹齢200年以上の松は見
事である。
滑川市造園業組合は27日滑川市高塚の市指定文化財「門松」を守ろうと、ボランティアで剪定や防除作業を行った。追分から進んで三ケの村に入
る。街道は、新道と分かれ左のやや下へ行く細い道を辿り早月川の堤防へ行く。この辺を西川越えと称し藩政時代には、ここに藩より指定された四名
の川越人夫がおかれ、渇水期には「竹越え」や「背負い越え」で渡したり、海辺に近い流れの緩やかな場所や海岸を舟で渡したりしたという。
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